2024年03月11日
Dr.スランプ アラレちゃん の巻
先週、漫画家の鳥山明さんが亡くなったとのニュースが
飛び込んできた。
まだ68歳。
巨星落つ。
Xやインスタには鳥山さんの死を悼む投稿があふれている。
私も惧れながら、鳥山さんとの想い出を考えてみた。
大学を卒業し、就職したのは
玩具メーカー・バンダイの関連会社「ポピー」の
商品やパッケージをデザインをするデザイン会社に入社した。
ポピーというのは、キャラクター玩具を扱う会社で(今はバンダイに統合)
テレビアニメのキャラクターを玩具にして、販売していた。
アニメありきではなく、逆に玩具にしやすいキャラ設定に
して欲しいとの企画もあったよう。
就職したその年に「Dr.スランプ アラレちゃん」のアニメの企画が
始まった。
色々な玩具が考えられ、各デザイン会社はポピーに提案していった。
もちろん私もその仕事に携わった。
主に、アラレちゃんのファンシー商品の企画をした。
1981年のことだ。
その年の秋に私の父が船の事故で亡くなり、
実家の長野県に戻り、
そのデザイン会社は辞めた。
実家長野県の諏訪精工舎がデザイナーを募集しており、
そこに応募した。
ちょうど、B-2事業部を始めたところで
デザイナー不足で、中途採用をしていたのだ。
それに応募し、採用となった。
B-2事業部というのは、SEIKOのデュフュージョンブランドである
ALBAや海外ブランドPulsarを企画・製造する事業部。
そこで私が眼にしたのは
「Dr.スランプ アラレちゃん」のデジタルウオッチ!
ここでまた出会えるとは!
なんという僥倖!
その当時、デジタルウオッチが大人気の頃で
簡単なゲームができるウオッチが流行っていた。
デザイナーの人たちは、皆、このデザインに関わって
毎日残業をしていた。
私もその波に飲まれていった。
なので、私にとっての「Dr.スランプ」というのは、
初めての仕事のようなもの。
企画をするために、コミックスを何冊も見、
模写し、企画書を作成した。
その作者が亡くなった。
私の仕事も遥かかなたの遠くのことになっていった。


以上は、ポピーで発売していたアラレちゃんの超合金人形。
私がデザインしたものではない。

そしてALBAデジタルゲームウオッチ
これも私は直接携わりはしなかった。
同僚がデザインしていたもの。
飛び込んできた。
まだ68歳。
巨星落つ。
Xやインスタには鳥山さんの死を悼む投稿があふれている。
私も惧れながら、鳥山さんとの想い出を考えてみた。
大学を卒業し、就職したのは
玩具メーカー・バンダイの関連会社「ポピー」の
商品やパッケージをデザインをするデザイン会社に入社した。
ポピーというのは、キャラクター玩具を扱う会社で(今はバンダイに統合)
テレビアニメのキャラクターを玩具にして、販売していた。
アニメありきではなく、逆に玩具にしやすいキャラ設定に
して欲しいとの企画もあったよう。
就職したその年に「Dr.スランプ アラレちゃん」のアニメの企画が
始まった。
色々な玩具が考えられ、各デザイン会社はポピーに提案していった。
もちろん私もその仕事に携わった。
主に、アラレちゃんのファンシー商品の企画をした。
1981年のことだ。
その年の秋に私の父が船の事故で亡くなり、
実家の長野県に戻り、
そのデザイン会社は辞めた。
実家長野県の諏訪精工舎がデザイナーを募集しており、
そこに応募した。
ちょうど、B-2事業部を始めたところで
デザイナー不足で、中途採用をしていたのだ。
それに応募し、採用となった。
B-2事業部というのは、SEIKOのデュフュージョンブランドである
ALBAや海外ブランドPulsarを企画・製造する事業部。
そこで私が眼にしたのは
「Dr.スランプ アラレちゃん」のデジタルウオッチ!
ここでまた出会えるとは!
なんという僥倖!
その当時、デジタルウオッチが大人気の頃で
簡単なゲームができるウオッチが流行っていた。
デザイナーの人たちは、皆、このデザインに関わって
毎日残業をしていた。
私もその波に飲まれていった。
なので、私にとっての「Dr.スランプ」というのは、
初めての仕事のようなもの。
企画をするために、コミックスを何冊も見、
模写し、企画書を作成した。
その作者が亡くなった。
私の仕事も遥かかなたの遠くのことになっていった。


以上は、ポピーで発売していたアラレちゃんの超合金人形。
私がデザインしたものではない。

そしてALBAデジタルゲームウオッチ
これも私は直接携わりはしなかった。
同僚がデザインしていたもの。
Posted by みなと at 11:51│Comments(0)
│懐かし話
オーナーの承認後に掲載されます。